多くの民族が、天地創造神話を持っていますが、日本民族の天地創造神話は、古事記や日本書紀に書かれています。最初に出て来る神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。その後、かなり多くの神々の後に、天照大神(あまてらすおおみかみ)という女神が現れ、この女神が皇室の先祖神とされ、伊勢神宮に祀られています。
独身の天照大神に子孫がいるのは可笑しな話ですが、神話だから皇室の先祖とされる神の他にも、色々な神を生んでいます。その中に、宗像三女神と呼ばれる姉妹の神々がいます。
長女は、本州西端と対馬のほぼ中間に位置する、沖島(おきのしま)にある小屋のように小さな社(やしろ)に祀られ、次女は九州本土に近い大島に、やや大きな神社に祀られ、末娘は九州本土にある大きな神社、宗像大社に祀られています。私はその三社とも、何回か訪れたことがあります。沖島は、今は港も整備され、宗像大社の神職が何人も住む立派な建物もありますが、私が二度訪ねたうちの最初は、島に住むのは独身の爺さん一人でした。司馬遼太郎の本に、十七歳の青年が一人で住み、日本海海戦を松の木に登って目の前に見た、と書かれている、その人です。
ずっと後に島に灯台が造られ、十日おきぐらいに海上保安庁の船が数人の人員を島に上陸させ、点検してから船に戻るということを聞き、その船に乗せて貰って、沖島に行きました。当時は未だ港もなく、船は入江の中に停泊し、保安庁員たちはボートを降ろして、それに乗り込んで島に向かいました。私は日本海海戦を松の木に登って眺めた青年、私が訪ねた時にはかなりの歳の爺さんでしたが、その人が一人で櫓舟を漕いで迎えに来て呉れました。
そして、山の頂き近くの、まことに小さな小屋のような社(やしろ)に案内して呉れました。日本海海戦を眺めた時も、私が訪ねた時も、宗像大社の神職として、小屋のように小さく粗末な社(やしろ)に住んでいたのです。多分神職は名ばかりで、神職としての素養や資格は無いのだろうと思いました。それでも、住んでいて呉れれば、小屋のような社(やしろ)でも消滅せずに保たれるということで、頼んでいるのだろうと思いました。  
本当は、素裸になって海中に頭まで浸かって禊ぎをしなければいけないらしいのですが、爺さんがどんどん先に行くので、私も続いて島に上がりました。
社(やしろ)に行く途中には幾つも巨岩があり、曽てはその岩陰で大和の中央政権が度々神事を行い、それに用いた多くの品々が古代の遺品として、今は九州本土にある末娘の祀られている宗像大社の神宝館に展示されています。その殆どが、国宝に指定されています。こんなに沢山の国宝が纏まって発見されたのは、珍しいことだろうと思います。
二回目に沖島を訪れたのは、植物学関係のグループツアーで、植物学的にもたいへん面白い島なのだそうです。

もうこうなったら、動機しかないんです。
AIと人間を分けるのはモチベーションだけなんです。

 
未知の分野への挑戦
だれも教えられない。自分で切り開くしかない。
 
未知に挑戦しなければ、既存の繰り返し。
そこには創意工夫は要らない。価格差別しかできない。
同じものを大量生産できることでスケールメリットが出せて安価供給できる時代は、
規模の大小が物を言った。
 
だれかが考えた1を、10や100にするなら機械でいい。
0を1にする仕事は人にしかできない。チャレンジは人間だけの特権です。
 
これからの世界は、
0から1を創る仕事が求められます。
だからこそ未知の分野へ挑戦が必要です。
人間である以上、本来だれもがその資質を持っています。
しかし、後天的な教育によって、先回りして考えるようになり、やりもせずに諦めてしまいます。
 
お金や時間や頭の良さがなければできない、と山ほど言い訳をさがします。
できる方法を探さずに、出来ない言い訳を探すんです。
 
できるかできないか、は関係なくて、したいかしたくないか、が全てです。
できないかもしれない=できるかもしれない。心の向きが±の違いだけです。
 
勇気がない人ほど、チャレンジしないための言い訳を探して、他人も引きずり込もうとします。
その考え方では、だれの役にも立てなくなります。いずれ必要とされなくなります。
チャレンジするテーマに気付けなかったりチャレンジしない人は、要らなくなります。
チャレンジしない臆病者は目の前の金に頼ろうとします。一番下手な金との付き合い方です。
 
一番いい投資は、知恵と食事です。
貨幣価値は変動するけれど、血肉にしてしまえば失うこともありません。
強い体や考える力があれば、今日明日を生きる力に変わります。
 
現在の評価は気にする必要はありません。
今は過去の結果だからです。大切なのは、明日です。未来です。
今なにに時間やお金やエネルギーを投資するか。
人と同じことをしていては大成しません。他人と自分は違うからです。
この考え方を、マーケティングと呼びます。
 
マーケティング的な、科学的な考え方ができるようになると、
他人の評価は気にならなくなります。
他人の評価は絶対ではないし、それで自分を評価することは非科学的だからです。
極論すると、現時点で数値化できることは、ほとんど気にしなくていい、ということです。
なぜなら、今の評価指標自体、将来変わる可能性が大きいからです。
 
今知らないことや今できないことは問題ではないということです。
知ればいいし、できるようになればいいだけだからです。
本当に未来が危うい人とは、他人軸でしか自分を評価できない思考停止人間だけです。
クリエイティビティに挑まない人は、永遠にブランド品を買い続けるしかないんです。
 
前例がないことは意外とラッキーです。
前例がないおかげでとてもクリエイティブになれるからです。
前例踏襲していては永遠に新しいものは創れません。

 

日本の教育もそろそろ変わらねばなりません。

資源のない日本で注力すべきは教育です。

優秀な人材が前例踏襲職場で、チャレンジ機会を奪われて疲弊していくのは国力低下につながります。

チャレンジする力、創意工夫する力、多様性から新価値を生み出す力こそ必要です。

 

評論家づらして、人のモチベーションに水をさす卑怯者を、変えていくような教育こそ必要です。

自己肯定感を保てない卑怯者にこそ、可能性を教えてあげなければいけません。

弱い人間にこそ教育は必要です。教育が届けば、モチベーションが生まれ、他人軸の承認欲求は薄まります。

そうなることで、ようやくmatureな人間として自立できるようになります。

 

人は本来助け合いたい。人は本来よりよくしたい。本来の気持ちに還ること。元の気に戻ることが元気。

“Dream can do, Reality can do”

 

機会平等であって、結果平等を求めてはいけない。人を活かす。

 

理想は目印。届かなくてもいい。方向を確認するための指標。

 

 

 

以上、備忘録。

 

 

 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

家系で言えば、

 

もう一年くらいで生を終える年頃。

 

これまでの点がつながる猶予もわずか。

 

思惑とは別に、もっと永らえるかも。

 

親や、祖父母とは違って、

 

思いのほか永らえることもあるかも。

 

ならば、余命。

 

ならば使命を果たしてこそ。

 

使命=命の使いみち。

 

授かったからには、ちゃんと。

 

 

声も、表情も、

 

歌っているところも、話していることも、

 

プロポーションも、髪形も、

 

コーデも、こだわりも、

 

怒るところ、笑うところ、和むところ..

 

感じるシンパ..

 

暮らせるかも、と思うほど

 

好き!

 

 

この気持ちを、

 

もっと手放しに暴走させたら、

 

過去を全部捨てて、

 

明日に賭けてしまうかも。

 

 

あなたは、こわい人。

 

 

 

 

これからの時代は、今まで以上にパラダイムシフトが早くなると言われています。

 

スマートフォンが世の中に登場して十年ほど。

 

情報や流通小売りのタッチポイントも移ろって、ユビキタスなんて言ってた時代が大昔のように感じます。

 

東京2020が過ぎた頃には、もう今とはまるで違う景色が開けているのだと思います。

 

次世代移動通信も5Gになり、副業が当たり前になり、リカレント教育が進化して、

 

個人も複数の個性を活かしながらレバレッジを掛けていく。

 

ひとつの企業への帰属意識も薄らいで、ホワイトカラーが担っていた作業的な仕事はAIが担って。

 

貨幣や紙幣も不要になって、金融人材も省力化できるようになります。

 

人は本来の創造的なことに専念して遊び続ければ、これまでと同等のGDPを生み出すことができます。

 

世界で初めて人口減少社会を経験する日本は、一番先に経験値をストックできる優位性を得ます。

 

中国などは、数億人規模の失業を恐れて、全てをAI化せずに人の働き場所を敢えて保留しています。

 

ならば、この分野でも先行できるではないか。

 

実に面白い時代に入ってきたし、その過渡期に人生百年時代の半ばを生きています。

 

医療も、AIも、通信も、モビリティもわずか数年で変化していく面白い時代です。

 

 

例えば、マスコミュニケーションのような古い仕組みの上に成り立っていた

 

アドバタイジングのようなビジネスモデルはもう立ち行かないでしょう。

 

しかし、モチベーションを喚起するためのコトバや写真の世界は普遍的だし、人間かAIか誰かが担わなければなりません。

 

認知と行動を研究しながら、ナッジを利かせてアフォーダンスすることは永遠になくならない技術です。

 

アドバタイジングを極めた人たち、追究してきた人たちこそ、次の世界が求めているのではないかとも思います。

 

これからますます表層では通用しない面白い時代になるといいなと期待しています。

 

本質を見極めることこそ、この世界をもっとファンタスティックな方へ導いていけるのだから。

 

 

 

 

あなたが今、思っている成功や幸せが、

 

人生を終える時と違っていることは、有り得ます。

 

ほんとに、それを求めているのか?

 

それが自分の根っこからの本心なのか?

 

人の可能性は、他者との出会いからしか生まれない。

 

 

幸せになりたければ、

 

他者を気にせず自らの足元を掘れ。

 

しかし、そのスコップは他者からしか授かることが出来ない。

 

このことに気付くのに随分時間が掛りました。

 

理論的にはあと40年ほどの余命。

 

元気でやれるのは、よくて15年。

 

だったら後悔しないように、あのやり方をやるのです。

 

これに関しては、勉強も実体験もしてしまったので無敵です。

 

 

せめて、少し距離のできたあの人と、少し時間を共有しておきたい。

 

決して、私も長くはないのだから。

しけとうね。

 

博多モンなら絶対言われたくない言葉。

 

男として、人として、つまらない、ダサい、という言葉。

 

九州にはこんな価値観があるからか、

 

人のせいにしたり、横取り割り込みしたり、陰口をたたくような人は少なかった。

 

みんな自分勝手で忖度などしないが、それぞれを尊重するから牽制ややっかみもない。

 

小粒な男を見ると、ほんとうに気色悪そうに、「おまえ、しけとうね」と言い捨てたものだ。

 

意外なのは、関西が忖度文化ということ、東京のほうが骨がある。

 

日和見したいなら、群れて日和見すればいいと思う。

 

例えば、大阪を変えてきた骨のある男たちは、みな地方出身者なのだ。

 

五代にせよ、中馬にせよ、、、なんだ、九州男児かよ。

 

ほんとうに、つまらん話よ。

久しぶりに此の町の
路面電車に乗りました。
お年寄り、働き女性、高校生、サラリーマン、、
みんな静かに乗っています。

足の悪い人が乗って来たときは、近くの人が席を譲りました。
小さな姉弟を連れた母親のときも、親子が一緒に座れるようにと、
向い合わせの席が譲られていました。
乗り合わせた誰もが、自然と人に優しくしながら時間を共有しています。
地方の町に還ると、懐かしいこの感じを思い出します。
町はきれいで、大きな樹木や、世話の行き届いた花壇などがあります。
こんな町で気分よく暮らしています。

大きな街に戻ってみると、また違った様子です。
満員電車に駆け込み乗車する人たちが、先に乗り込んでいた乗客と
体を密着させて押し込まれ互いに不機嫌そうにしています。
あと2分待てば次の電車が来るのに、駆け込み乗車してしまう都会の人たち。
杖の人やベビーカーの母子は、歩くのが遅い邪魔者と言わんばかりに、
あからさまに迷惑顔で睨み付けています。
不快が充満している街で、みんな我慢して暮らしているように見えます。
業務的に備えられたプランター、その中のフラワーポットを持ち帰るおばさん、
疲れる街です。

どちらも知っておいてよかったと思います。